楽しいことがない

以前からこんな事ばかり書いているが、たまに強く感じ、何もしたくなくなる。厳密に言うと、腹減ってから美味いものを食べたり、酒を飲むのは楽しみ(というよりも逃避)だが、他にはちょっとすぐに思いつかなくなってしまった(うまいものを食うのを目的とした生き方はヒトラーも批判していた)。最近、家庭の事情からゆっくりアニメを見れなくなったしテレビはつまんないし、だいたいやりたい事がない。以前は多趣味だったような気もするけど、単に退屈が怖くていろいろ手を出して時間を潰していただけかもしれない。
やりたい事ってちょっとはあって、人生とは何か?何故生きるのか?を考えることで、でもそれは現在のところ結論が出てしまっている。さんざん書いている通り、生きる目的なんてなくてただ生きてるだけ、やりたい事があれならやれば?程度である。以上。
そうなると日常生活、起きている間のほとんどは義務で占められている。朝、時間に起きて飯用意して食って片づけて出勤してやや仕事して、昼飯食って夕方になったら急いで買い物して帰って飯食って片付けて、いろいろして寝る。たまーにしか、連続睡眠・熟睡できないのもストレスかもしれない。休日は、仕事が無い分家庭的義務が多くて、むしろ自由にできる時間が少ない。一人で好き勝手にできる時間など、ほとんどない。
そういうのが本当に嫌なら一人で生きることである。家庭や子供を持つなんて以ての外、仕事も人づきあいも最小限にすれば義務を減らすことはできる。でももっとつまんなくなるかもしれない。そう考える人はおそらく多くて、だから家庭を持つのか、それとも、何も考えてないのか。
義務しかない人生と考えると、それはなんと乾いたものだろう。一つの利点は、そう考えることで、義務からの解放という一点において、死の恐怖を軽減する。
もう一つは、義務をこなすことで時間を潰し悲観的思考や退屈から遠ざかることができる。人間は結構、単純作業が好きだから、そういう事を毎日決まってやるのは苦痛ではない。犬が毎日散歩するように人生をこなす。先のことを考えて憂鬱になるのは、ましてや楽しい時と比べて普通の時をマイナスと感じるのは人間独特の性質で、それは文化・文明が発展するのに必要な知恵からくるものだけど、生物としては不自然な気もする。犬は今しか生きてない。過去の経験は覚えているけど、自分を捨てた飼い主や、死んだご主人やきょうだい犬の事をくよくよ考えたりはしない。また今日も雨だから散歩に連れてってもらえないだろうなと落ち込んだりもしない。カネや名誉のことも考えない。ただ今を生き、ほんのちょっとの楽しみを見つけようとする。日常を義務と捉えるかどうかは考え方次第、もちろん現実に苦痛を伴う義務からはあらゆる知恵を動員して逃れようとすべきだけど、そういう何も考えない動物的な生き方の方が自然だし強いかもしれない。今日も何もなくてよかった。
でも毎日感謝すべき、まで行くとあまりに教条的で、感謝義務の押しつけである。
(また犬の話だ)
さらに、とりあえずやりたいことが無い場合、日常を安楽に暮らすのが目的になってくるのは当然であろう。日常生活における苦痛の軽減というと、例えば夜勤がある仕事だと、大抵の人にとってそれは生活リズムを崩すし、眠いのを起こされて働くのが良いという人なんていないので、そこから逃れようとするのが正当ということになる。中年以降の徹夜はその後数日にわたって深刻な疲労感を残し、俺はこんなことをするためにこれまでやってきたのか?と思う。すると、その義務のない立場に移るか、完全に転職するのが当面の正当な目的になるけど、なかなかそうもいかない。簡単な転職なんて無いし、それさえ我慢すれば安定的な収入と生活が得られるから仕方なくそこに留まる場合が多い。全面的に快適な仕事なんて無いし。その安定性と苦痛を天秤にかけて、どうしても我慢できなくなったら逃げ出す。それまでは正当でない我慢を強いられよう。つまり人は正当なことだけして生きられない。本当に正当なことだけしようとすると、おそらくあらゆる職場で問題点を発見し、結果働かず生活保護になって社会の批判ばかりする人になってしまう。他人の世話になって文句だけ言うのは、究極的自己中心であろう。当面、その最悪の一歩手前で生きるしかない。